| 大徳院は高野聖(こうやひじり)の寺です。今から凡そ400年前の文禄3年3月(1594年)徳川家康によって和歌山県高野山に徳川家菩提(文武両道)の祈願寺として開かれました。<大徳院>の寺名は、高野山を開いた弘法大師の<大>と徳川家の<徳>を採って<大徳院>と号したのには由来します。 爾来高野山で徳川家の菩提寺として寺基を固め、徳川家の勢威を背景に全国聖方諸末寺を統括する<聖方總触頭・ひじりかたそうふれがしら>となり、隆盛時には聖派百余ヶ寺を統括していました。高野山では古くから高野三方(こやさんかた)といって僧分を行人方(ぎょうにんかた)、学呂方(がくりょかた)、聖方(ひじりかた)に三分する制度がありました。大徳院はこの三方の聖方に属していました。 徳川家康公は時宗聖の系累にあったと言われています。家康公七代前の松平泰親は幼名を独阿彌松寿丸といい、時宗聖の名刹藤沢の遊行寺第十二世尊観について回国遊行の途次、三河で松平氏の目に留まり、養子にはいりました。また泰親の先代松平親氏(家康の八代前)は相模の藤沢寺で高野山蓮華院(大徳院の前身・現存)と師檀関係を結んでいたといいます。親氏→泰親→七代後に家康がでます。家康の祖父松平清康が天文13年(1544年)に没し、大永5年に遺骨は高野山蓮華院に納められ、光徳院となりました。 そして文禄3年(1594年)3月、吉野から高野山に参詣した家康公は蓮華院に宿泊、時の蓮華院住職宥雅法印のもとご先代様方の御尊牌供養を厳修し、これを契機に大徳院に改号しました。そして同年7月家康公は直ちに二人の御普請奉行<広川土佐守・小出大和守>を高野山に向け、徳川家の霊屋と大徳院本坊の創建に着手しています。 時に慶長12年(1607年)大徳院は家康から朱印200石を与えられました。またその後寛永10年(1633年)には大徳院境内に徳川家の御霊屋(おたまや)と東照宮の造営が着工、寛永20年(1643年)にいわゆる<大徳院東照宮>が竣工、同年4月17日にはその落慶法要が営まれています。(これらは重要文化財として現存)。因みに江戸の東照宮は69社あったとされていますが、その中に<大徳院東照宮 墨田区南本所元町>があります。また明治御維新の神仏分離令で東照宮は薬師堂に改変しましたが、現在に至っています。 こうして高野山の大徳院は、徳川家の庇護のもと近世高野聖の頂点にたちます。しかし行人方からの反発もあり、大徳院は蓮華院に復し、大徳院の跡地には行人方の南院が移り来て、現在に至っています。 と同時に、その一方で高野山の大徳院草創期に住職であった宥雅法印は、貞享2年(1686年)に現在地(墨田区両国二丁目)を幕府より拝領、高野山御仏殿別当・高野山諸末寺触頭として江戸での大徳院の寺基を固めました。またこの宥雅法印は、かって家康公に従って陣中での戦略の吉凶などを占い、その進言は家康公から厚い信任を得ていたと言われております。 <新編江戸誌>や<砂子集>には<高野山御仏殿別当本所一つ目 本尊薬師如来 南都大仏殿勧進所あり>と記しています。明治御維新になり、明治4年9月大徳院の寺名は現在地に移され、<紀伊高野山金剛峰寺宗務伝達所>として明治18年まで存続しました。そして明治15年(1876年)5月5日には明治天皇が当山へ行幸、大徳院は聖跡に指定されています。 こうして明治18年以降は高野山真言宗の一地方寺院として現在に至っています。 |
| 参考文献: |
| 文政書上状(国立公文書館) |
| 新編江戸誌、砂子集、葛西風土記 |
| 高野聖…庶民佛教をささえた聖たち 五来重(角川選書ー79) |
| 家康公と全国の東照宮…泰平と激動の時代を結ぶ東照宮巡り 高藤晴俊(東京美術) |
| 家康公 文学博士 中村孝也(全国東照宮連合会) |
| 本所仏教界三十年誌 三十年誌編纂委員会 |
